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 3第将軍家光の時に定められ、江戸時代各藩に義務として課せられていた参勤交代制度は多くの藩の財政にとって非常に重くのしかかっていました。参勤交代に掛かる費用のみならず、江戸に大名や家来達を留め置くのに必要な生活費は莫大な支出となり、藩の支出の6~7割を占めたと言われています。
 ですから何とかして経費を切り詰める事が必要だったのですが、江戸時代は平和な時代だったので、逆に見栄の張り合いで、どれだけ豪華な大名行列を見せるかというのがプライドを賭けて行われました。ましてや大大名となると、行列の従者の数を多くそろえることが重要となったのです。しかし、国元から江戸まで多くの従者を連れて行けばそれだけ宿泊費や食費がかさみ、莫大な出費となってしまいます。そこで、当時常識化していたのが大名行列の「サクラ」でした。「渡り者」(定職にも就かずぶらぶらしていたならず者)と呼ばれる者達を、品川宿など江戸周辺の街で雇い入れて、宿場から江戸までの道のりだけアルバイトとして雇い入れ、行列が終わると解散といった事が行われていました。
 文政10(1872)年の加賀藩の大名行列は、総勢1969人のうち臨時雇用が686人。じつに1/3が藩士ではなかったそうです。686人を水増しした行列はいかにも「映え」たでしょう。江戸時代の人は実に見栄っ張りだったのですね。このバイトたちを斡旋する業者まで品川宿にはいたといいます。

 ところが藩にとって重くのしかかるこの参勤交代を免じられていた藩があったのです。それは徳川御三家の一つ水戸藩です。徳川将軍家に跡継ぎがいないと、尾張もしくは紀伊徳川家から跡継ぎが選ばれることが決まっていました。水戸藩は将軍を出す事はなかった(例外として15代将軍慶喜はもともと水戸家の出身であった)ものの、副将軍という役職が与えられ、参勤交代を免除され、江戸に常駐していました。そのため、水戸家の殿様の中にはほとんど領地の水戸に行ったことが無い人もいたようです。

 なお、参勤交代には例外も存在しました。 老中、若年寄(わかどしより)などの役職に就いている大名は、参勤交代をする義務はありませんでした。 また、江戸に近い関東の大名は、半年ごとに国元と江戸を往復した一方で、遠方の対馬藩は3年に1度、蝦夷地の松前藩は6年に1度参勤交代をすれば良いように配慮されていたのです。

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